初実の果

キリスト教についてまとめるメモブログです。

国への愛と神の愛の違い―愛の誤用について


エス様の教えには、次の御言葉のように難解な箇所があります。

私のもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、また自分の生命(いのち)さえも憎まない者は、私の弟子となることは出来ません。 ルカ14:26

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もちろん、この言葉はとても極端だとすぐに分かります。イエス様は私たちに家族(や自分の生命(いのち)を)憎むように望んではいません。しかし、この言葉は正しく、一つの真理を示しています。神の愛とその他の愛は同じカテゴリに属していないのです。
神の愛は永遠に続きますが、私たちは神を愛し続けられません。神は私たちを一番に愛しますが、私たちは神を最も愛せていません。 そのため、神の愛に比べれば私たちの愛情などまるで憎しみにすぎないのです。

つまり、神の「愛する」の基準からすると、私たちの「愛する」はとんでもない思い違いだと言えます。

毎年 独立記念日の頃になると、この現実が私の目にまります。たくさんのクリスチャン友達が愛国心(国への愛)とキリスト教の信仰心(神への愛)をまぜこぜにツイートしているのを見ると、どうしても違和感を覚えてしまいます。 政治的な話をしているのではありません。こうした(国、家族、スポーツチームへの)愛着心はすべて、神の愛と同じカテゴリに属していません。「私は神とスマホを同じように愛している!」と言っているようなものです。神はほかの何かとひとくくりにまとめられる存在ではありません。

私たちの人生における「愛」のほとんどは、ある種の一体感を抱かせます。たとえば、あなたが愛着心を持つ家族、スポーツチーム、大学、地域、国について考えてみましょう。こうした愛着心は、同じような愛着心を持つ人と気持ちを共有できます。子供の頃、私の家族は「シボレー」ブランドに愛着心を持っていました。ブランドへの愛着心は、アメリカの自動車メーカーによって意識的に育まれていました。当時、同じく人気のあったフォード車に対しては、その頭文字から「フ遍的にオんぼろでドうしようもないFix or Repair Daily」車だとする父の持論を信じて、隣の家にあるマーキュリー(フォード製)にも絶対に問題があるだろうと疑いませんでした。家族の絆によって、父の見解は私たちにおよびました。このように、家族愛は他の愛と比べても明らかに強いのです。しかし、その強い家族愛でさえ、神の愛と同じカテゴリに属しません。

20世紀初頭、現代マーケティングに人々を魅了するトレンド作り(心理インサイト)が始まってから、愛着心は操作の対象とされてきました。人々は流行を追い、熱狂するようになりました。そのため、重要な事柄を合理的に議論ができなくなり、強い絆で結ばれている家族にさえ影響を及ぼしてきました。

最近の世論調査にこのことが反映されています。

日曜日の夜にHBOで放送されたAxiosの世論調査によると、米国人の多くは自分の支持しない政党が無知で、邪悪で、国を破壊していると考えていることが分かりました。民主党支持者の61%が共和党支持者を「人種差別、偏見、性差別者」と見ており、共和党支持者の31%が民主党支持者を同じように見ていると答えています。

「HBOのAxios」の世論調査によるとこの問題は非常に根深く、米国人の3分の1が"自分の支持政党に合わない人と家族が結婚したときは、失望するだろう"と答えているほどです。

  • 少なくとも家族の結婚相手が自身の支持政党と違うことによって、多少気分を害すると答えた割合はリベラルな民主党支持者では50%、保守派の共和党支持者では32%もいました。

この事実は「政治的立場の違いや、それによって失望することがおかしい」という話ではありません。しかし、私たちの愛着心は目の前の問題よりはるかに深い感情にっているのです。

私がここで伝えたいのは、政治的対立の話ではなく、神との関係についてです。神への信仰にとって、操作の対象となる心は非常にゆがんだ土台です。この心の特徴によって、自分でも気づかないうちに誤解した神観がすり込まれる可能性が高くなっています。同じ重さの罪が二つあります。神を忘れることと、誤解した神を覚える(=信仰する)ことです。

正教会教父Fathersたちは一貫して否定的なapophaticism(「神は〇〇だ」ではなく「神は〇〇ではない」という)神へのアプローチ――つまり、私たちは神について完全には知らないということ――が基礎になっています。 これは私たちが完全には知らない神を「〇〇ではない」と判断しているのではなく、私たち自身と「神は〇〇なのだろう」という思い違い、惑わしに対して言っています。神を知るためには、まず私たちが神を知らないことを認めなければなりません。

神へのアプローチの正しい始まりは、私たちがみな愚か者なのだと認めたときの生活への影響を想像することです。

「愚か者」というのが言い訳として使えるわけではありません。むしろ、私たちの盲目についてよく認めることです。「神を知らない」というのは、神に関してではなく、自分自身についての告白です。確かに、神を知らず、同じように私たちはお互いをも知らないのです。愚かなエネルギーに(自分自身や他人によって)会うことがあります。しかし、この愚かさは私たちや神の存在が真実ではないという失敗を犯させます。

教父Fathersによく使われる言葉として「nepsis」があり、しばしば「sobriety(素面しらふ)」と訳されます。情熱的な無秩序の力に酔っている時、見ることも考えることも信頼できることは何もありません。そのため、正教の霊的生活の全体が「静寂(ヘシカhesychia)」や「静けさstillness」という言葉に集約されています。

古典小説「蠅の王」は、凶暴な狂気に陥り、残酷に殺人を犯してしまう子どもたち(島に置き去りにされた少年たち)の無邪気さを描いています。大人たちが少年たちを救うために着いたとき、小説を読む上で静けさがあります。起こったことに対する涙と共に素面が戻ってきます。これは宇宙で唯一の大人である神を呼び求めるのと同じ素面、静けさです。私たちの幸せは、神が恩知らずや悪にさえも慈悲深く親切であることです(ルカ6:35)。

私たちは愚か者です、主よ、祈りを聞いてください。

[8/15文章を修正]