初実の果

キリスト教についてまとめるメモブログです。

洪水、疫病、戦争…聖書の神は愛の神?(Part1)


"頬を打たれたら別の頬を差し出すように命じる神は、どうして罪のために石打ちにされることを許すのでしょうか。私たちを呪う者に祝福するよう求める神は、どうして大切にしていたであろう人々を洪水で滅ぼすことができるのでしょうか。空腹の5000人の男とその家族を憐まれた神と同じ神が、一晩でソドムとゴモラを完全に滅ぼすことがどうしてできるのでしょうか。話の筋が通っておらず、意味が分かりません。"

前書き ー HG・ヨセフ主教による

が人間を自分のかたちとして創られたとき、は人間を全世界の支配者とされて言いました、「生めよ、増えよ。地に満ちよ、地を治めよ。海の魚、空の鳥、そして地を這うあらゆる生き物を支配せよ」(創世記 1:28)。
しかし地上での、この支配は長くは続きませんでした。アダムが堕落した後、その不従順の結果として、地の反抗がおきました。「地はあなたのために呪われる。あなたは一生の間、苦んで働き、食を得ることになる。あなたのために茨とあざみを生えさせる」(創世記 3:17,18)。

やがて人間の堕落が進むにつれて、地も人類の悪に対して反発を強めていきました。

「地は汚されており、わたしは地を悪のゆえに罰し、地はその住民を吐き出した。」(レビ 18:25)。「あなた方の前にいた地の人々がしたこれら全ての忌まわしいことのために、地は汚されている。地があなた方の前にいた民族を吐き出したように、あなた方が汚し、吐き出されることのないようにしなさい。 」(レビ 18:27 28)。
これらの節を読むと、こんな疑問が湧いてきます。「地が住民を吐き出すことなんてできるだろうか、そのように吐いた物はどこにあるのか。」
この質問に対する答えはとても簡単です。洪水、伝染病、火山、地震、台風、疫病は「地に人の悪が増し、その心の思いは絶えず悪であった」(創世記 6:5)ことの現れにすぎません。

それに、人間に自らの邪悪さを気付かせ、悔い改めに導くためなら、愛情深いが自然をつかうのは当たり前でしょう。ヨナの物語で、実際にそうされています。
でも残念ながら、このような警告に対する人の反応は変わっていました。自分の誤りを認めて大災害の責任を取る代わりに、さまざまな反応をしました。

人は怒りを避けるために自然を崇拝して多くの生贄を捧げ始めました。
「しかしの知識の下にない全ての人は空しい、目に映る善いものからもが誰かを理解できず、その業をみても職人を認めなかった。
代わりに彼らは火、あるいは空気、あるいは環境、あるいは星の動き、あるいは太陽と月を世界の支配者である神々だと考えている。
もし彼らがそれらを見て楽しんで神々のように思うのならば、それらのがどれほど偉大であるかを知るべきである。

万物を創りだしたのは、美の作者であるから。もし彼らがその力と働きに驚いたのなら、それらを創造したがそれらよりも強大であることを理解するべきである。」(知恵 13:1-4)。
ソロモンの知恵にあらわれるこのような崇拝は、の契約の箱を奪ったペリシテ人の物語の中でよく表れました。がはれ物で彼らを襲ったとき、彼らは「はれ物の像と地を荒らすネズミの像」の形で罪の申し出をしようと考えました(1サムエル 6:5)。

ペリシテ人とは別の反応として、が残酷で攻撃的で怒りに燃えている、という告発があります。
は私に対する怒りを燃やし、私を敵の一人として数えた」(ヨブ 19:11)。
実際には、これはアダムが堕落したときの人間の敵対的で攻撃的な動機を、純潔な全能ののせいに言い訳してるにすぎません。
だからは、ヨブと全ての人々に対して次のように叱責するのです。「自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか」(ヨブ 40:8)。

私たちは「は、その全ての道において義であり、その全てのわざにおいて恵み深い」ことをよく知る必要があります(詩篇 145:17)。
この詩篇の「全て」という言葉に注目してください。この言葉はの愛、義、憐みが大きく、完全で計り知れないことを強調しています。

この本は、人々が思っている謎、残酷に見えるの物語の背後にある正確で本当の理由、神の真理を強調するために書かれました。

どうかがこの本の著者ガブリエル・ウィッサ神父を祝福してくださいますように。ウィッサ神父は聖霊に導かれて、このような複雑な問題に取り組むことの重要性を感じ、聖書の難しい箇所のいくつかを説明して、分かりやすく伝えるために努めました。聖霊がこの本を読んだ全ての人の心に教え、永遠に栄光ある全能のの愛についてより深い知識が与えられることを祈ります。アーメン。

ヨセフ主教

コプト正教会米国南部教区主教

はじめに

かつて聖アウグスティヌス(5世紀の聖人)は言いました。
「神は私たちが一人しかいないかのように、私たち一人一人を愛している。」
とても力強い言葉です。でも、一旦ここで立ち止まってこの言葉について考えてみたいとおもいます。
もし自分が地球上でたった一人、唯一の人間であったとしたら、手のひらで全宇宙を支配する全能の神は、ケルビム(天使)に囲まれた天の御座を離れて、ご自身の評判も力をも空にして、私の人間性を祝福して、罪深い状態から本来のすがたに戻してくださるのでしょうか。
はい、そうしてくださいます。それだけではなく、は拒絶され、軽蔑され、唾を吐かれ、殴られ、いばらの冠を被せられ、槍で刺され、私のためだけに十字架に釘付けにされ、私のためだけに復活をしたでしょう。

この言葉は、聖人にも殺人者にも、どんな人にも当てはめることができます。
そうです、殺人を犯した人であっても、です。私たちの救い主はどれほど愛情深く、また慈悲深いのでしょうか。
この新約聖書、特に福音書によく表れています。福音書では、この上なく貴重な自分の命を私たちのために喜んで与える弱い被造物、完全に忍耐強く完全に憐み深く完全に愛に満ちたをみることができます。

一方、旧約聖書はちょっと見ただけで、さきほどの印象が簡単に歪められます。
中には旧約聖書は新約とは別の残酷なであると信じる人々さえいます。頬を打たれたら別の頬を差し出すように命じるは、どうして罪のために石打ちにされることを許すのでしょうか。私たちを呪う者に祝福するよう求めるは、どうして大切にしていたであろう人々を洪水で滅ぼすことができるのでしょうか。空腹の5000人の男とその家族を憐まれたと同じが、一晩でソドムとゴモラを完全に滅ぼすことがどうしてできるのでしょうか。話の筋が通っておらず、意味が分かりません。
分かりました、きっと2つの別の神がいるに違いないでしょう。少なくとも最初はそう思います…。

でも、考えてみると、論理的な観点から見ても、神が2つもいるわけがありません。なんでですかって?単に、真のには何か特別な性質が必要だからです。神は無限で、抑えきれるものでなく、限りのない方に違いありません。神はどこにでもいるに違いありません。
どうやって2つの神が限りない存在となれるのでしょうか。もし2つの神がいたとすれば、お互いに制限をかけあうことになるでしょう。つまり、どちらも神ではないのです。
ですから、論理的にいえばは1つしか存在できません。旧約聖書で暴行したは、完全に愛に満ちて完全に憐み深いなのです。

一体どうして完全に憐み深いが洪水や、都市の破壊、そしてたくさんの暴行を許すのでしょうか。この問題はとても難しそうに思えますが、ちゃんと答えがあるので、この本でそれを明らかにしたいと思います。
しかし、この難しい問題は簡潔には答えられないので、そこは我慢して聞いていただけるようお願いします。
多くの人々が旧約聖書を理解するのに苦労しているのは、簡潔な答えがないことが主な理由です。恵みとともに、が私たちの目を開き、理解を深め、の本当の喜びに満ちた本質を見られるように祈りましょう。私たちの神は愛ので、常にいます、今も何時も世々に、アーメン。

(Part2に続きます)