初実の果

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神はなぜ神を愛する者への誘惑を放っておくのか - シリアの聖イサクの説教


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聖徒たちが神の名のためにくるしみをたえて神への愛をあらわしたとき、神はその愛するものたちをみすてません。
聖徒たちは心の底から神をみる勇気を得ます。
勇気あるいのりは力づよいものです。聖者がたくさんのかなしみから試みをうけることを神がゆるすのは、神のたすけとまもりをおしえるためです。
なぜなら、神はくるしみの中からあがないだされる方だからです。聖徒たちは無学だけれども、経験から知識を得ます。それはサタンからあざわらわれないためです。
なぜなら、もしよいことだけで試みをうけたなら、ほかのまなびがないので たたかいにおいてメクラになるでしょうから。

シリヤの聖イサアク全書/第三十七説教 - Wikisource

ON THE REASONS WHY GOD PERMITS TEMPTATIONS TO COME UPON THOSE WHO LOVE HIM... - ORTHOGNOSIA

もし神が試みも知識もあたえずに みちびこうとするのなら、神はわたしたちを牛やロバのような自由のない生き物のようになることをのぞんでいるわけです。
まずわるさに試みられなければ、良さを味わえません。また、良さに出会っても、知識がなければ自分の持ち物のように自由な良い使い方ができません。
経験と練習によって、実際に手にいれる知識はどれほどすばらしいか。また、ながい経験から知識を得た者にあたえられる力はどれほどであるか。よわさと、知識のたすけ、神の力の助けを経験し、これをカタく信じる人はこのことがわかるはずです。
神はまずたすけるための力をとどめておかれます。こうして、わたしたちはうまれつきの力不足、試みのむずかしさ、敵のたくらみに気づきます。
だれとたたかわなければならないのか、なにを身につけるべきか、神の力でどのようにまもられているのか、その道をどこまであるいてきたのか、神の力がどのようなたかみまでひきあげてくださったのか、神の力からはなれると欲とのたたかいにどれほど力不足なのか、神はこうしたことをわたしたちにおしえているのです。
これらすべてのことをとおして へりくだり、神にちかづき、神の助けをまちのぞみながら いのりなさい。
もし神が「悪い経験」をゆるさないとしたら、これらのめぐみをどうやって受けとればよいのでしょうか。
使徒がいったように、「黙示もくし(=啓示けいじ)のおおさによってわたしが高ぶらないために、わたしの体にひとつのトゲがあたえられました。それは、サタンのつかいです。」〔2コリント12:7〕
しかし人は「試みの中で神がたすけてくださった」という経験によって、カタい信仰を得ます。それからはおそれをしらず、身につけた練習から試みにたえるつよい心を得ます。

試みはすべての人にとってよいものです。
「すべての口がふさがれて、世はみな神の前に罪あるものとなるため」〔ローマ3:19〕とパウロが言ったのは、試みをよいものだとしてです。
つとめる者は試みられます。富をますために。よわい者は試みられます。わるさから身をまもるために。ねむりにおちる者は試みられます。目をさましてそなえるために。とおくはなれている者は試みられます。神にちかづくために。神と親しい者は試みられます。勇気をもってたのしむために(orだいたんに神の家に入るために)。
まなびのない子どもは、父の家の富から たすけを得られません。このため、神はまず試練をあたえ、そのあとにタマモノをほどこします。
おさめ主は、ニガい薬によってわたしたちに健康けんこうをたのしませてくださいました。あなたにほまれをかえします。

まなんでいるときにぶつかってかなしまない人はいません。
試みのどく(=薬)をのむときにニガいとおもわない人はいません。
わたしたちには試みをたえしのぶ力がありません。土の器は、きよい火でカタくしなければ水がもれてしまいます。
へりくだって とぎれなくねがいもとめ、たえしのびながら神にしたがうならば、わたしたちの主キリスト エスによってすべてをうけとるでしょう。アーメン。

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