初実の果

キリスト教についてまとめるメモブログです。

”原罪”なきキリスト教?堕落とは何か、キリストの救いとは何か


Adam & Eve / creation and fall / XII century /"Adam & Eve / creation and fall / XII century /" by jimforest is licensed under CC BY-NC-ND 2.0

イエス・キリストのことをよく「救い主」と言いますよね。
でも、なぜイエスは救い主なのでしょうか。
キリストは、何からわたしたちを救ったのでしょうか。

(元動画)

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そのこたえは、世界のはじまりにあります。
アダムとイブの堕落についておはなしします。

アダムとイブの堕落は、よくまちがった理解をされています。
そこをまちがうことによって、みずからのことや神のこと、救いのことまで、あやまった理解をしかねません。
堕落を決まりとそれをやぶったことによる、神学用語でいうところの原罪*1のことだと おもいえがいている人が おおいようです。

そのようなかんがえ方について、ざっと紹介しましょう。
まず、神はアダムとイブをつくります。
それから、エデンの園とかパラダイスとよばれるところに人をすまわせました。
そこで、神はある決まりをあたえます。
『善悪を知る木から食べてはならない』

しかし、アダムとイブは食べてしまいます。
怒った神は、アダムたちを罰します。
楽園からおいだし、罰としてをあたえました。

このかんがえ方によれば、人類はアダムの罪を先祖代々うけついでいて、この罪はつぐなえません。
キリストが十字架で死んだのは、キリストの血といたみによって罪をつぐなうためです。

アダムの罪という『借金』を、キリストはだれにしはらったのか、というのは人によってことなるようです。サタンにしはらったのだという人もいれば、父なる神にしはらったのだ、とかんがえる人もいます。
どちらにしても、正教クリスチャンとはちがった見方です。

聖書の『創世記』には、世界創造の物語がえがかれています。
神は天と地、水、山、この世のすべてのものをつくられました。
神はそれぞれをつくるたびに言いました。「これはよいものだ
人をつくるときもおなじでした。
人をつくり、見て、神は言います。「これはよいものだ

しかし、人はほかのものとすこしちがいます。
わたしたちは、自由とえらぶチカラによって 存在しています。
神は人を死の運命につくられませんでした。不死にもつくられませんでした。みずからで完結できるようにもつくられませんでした。
生命のみなもとである神へちかづくか、 死をさがしに神からはなれるかをえらべるようにとデザインされたのです。

『善悪を知る木から食べてはならない』
わざわざこのような決まりをもうけたのも、そのためです。
聖イリネイは「アダムとイブは子どものようである」と言いました。
人は生命としてまだはじまったばかりでしたので、 みずからだけでは完結できないことをおしえなければいけなかったのです。

だから、「警告しておきますからね」と決まりをもうけたのです。
罰をあたえようとおもったからではありません。
「もしこの木から食べたら、あなたを殺すから」とは言っていません。
そうではなくて、「その実を食べた日には、かならず死ぬ」と言いました。

子どもの前でストーブをつけるとき、親は「ストーブはあぶないからさわっちゃダメだよ!」と注意しますよね。
「やけどするぞ」とおどしたくて注意するわけではありません。
子どもがやけどしてほしくないと ねがっているから、そのように言うわけです。

でも、ちいさな子どもは言うことをまもるとはかぎりません。アダムとイブもそうでした。
神とはちがう特別な『知識』が得られるとおもって果物を食べてしまいます。
神にみつかると、イブはヘビを、アダムはイブと神をせめはじめました。

『堕落』というのは、ただ決まりをやぶったからされただけの物語ではありません。
まじわりとむすびつきがこわれてしまう物語なのです。
アダムとイブはたがいに切り離され、 人と神も切り離されてしまいます。

わたしたちは不死のためにつくられましたが、不死につくられたのではありません。
神からはなれた人類は、人間性に おおきなつめあとを のこしました。
まるで、木から枝をすべてむしりとってしまったかのようです。緑はなくなり、いぶきをうしない、死のようにかわいた褐色へとかわってしまいました。

「アダムとイブがおかした罪をわたしたちがもっている」のではありません。
アダムとイブがつくりだした、こわれた人間性と病、 そしてこの世界をわたしたちがうけついでいるのです。

アレクサンドリアの聖キリルが言うように
「わたしたちの性質は、ある人、つまりアダムの不従順をとおした罪によって病にかかりました。
このように、すべての人が罪人になりましたが、それはアダムの共犯者になったからではありません。
もともと病んでいなかったものを、アダムの性質をもつことによって…人の本性はアダムのなかで病んでしまいました。」

この病は、人を鎖につないでしまいました。
ジョン・ロマニデス神父は『先祖の罪』なかでこう言っています。
「人が神からはなれてしまったため、世界は死におちいった。」
こうして、恐れ、不安、わずらいが生じます。
だれかのためにいきるというよりは、 生きていたいというおもいによってうごく生物学的存在へとかわりました。
人の希望が神ではなく快楽になりました。
わたしたちは、こころのむなしさをまぎらわせるために、快楽という薬をつかうのです。
「生命」とか「人生」とわたしたちがよんでいるものは、本当の生命ではなく、いやしく、欲深くて、はかないものです。

さらに、罪は世界にまでおよんでしまいました。
この世界にすむわたしたちに、神は世界の世話を託されたからです。
すべての物事が、内的なものも外的なものもひっくりかえり、 いたみ、罪、死がふかまっていく悪循環へとつながっていきます。

「人が快楽をもとめて いたみをみつけ、
命をもとめて死をみつけるのはこのためである」
創造と堕落をただしく理解すれば、 どんなにおそろしいことがあっても、希望をもてます。
神は永遠の命をつくられ、 神とひとつになることによって、その命をうけられるようにしてくださったからです。

神が罰をうむのではありません。
神が死をうんだのでもありません。神はわたしたちを不死とするためにつくられました。

次回、神がわたしたちをどのように「不死」へみちびいたか、どのように死から救ってくださったかについて はなしたいとおもいます。

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*1:一般的にいうところの原罪のかんがえ方のことをさしている