初実の果

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「神の善」--シリアのイサクによる


今日シリアのイサクをよんでいて、こんな言葉をみつけました。イエスのたとえ話である「放蕩ほうとう息子」からのはなしです。
シリアのイサクは7世紀せいきの主教です。また、東方教会でとても名高い人でした。かれはイラク北部にあるニネベの主教でした。そのあと、孤独こどくといのりと執筆しっぴつの人生に身をひきました。かれの著作は今や世界中でしられています。とくに、東方正教会の兄弟たちの間で大切にされています。その本は東方正教会の人だけではなく、ハバひろく たくさんの人々を元気にしています。かれのふかいいのりと聖書の研究、そしてイエス・キリストへの愛からうまれた神のあわれみについての、とこしえのメッセージをつたえてくれています。

Isaac of Syria on God's Goodness — Saint Paul's

罪人をにくんではいけません。神はあなたにその価がないのに、めぐみをあたえてくださったのです。ですから、神のめぐみを のべつたえる者になりなさい。

あなたは神にたくさんの借りがあります。しかし、神はその分のしはらいを強いません。むしろ、あなたの良いおもいからの小さなおこないに、ゆたかなむくいをあたえてくださいます。神を「正義」としてかたってはいけません。正義の神は、あなたをそのようにあつかうでしょうか。

ぶどう園の労働者のたとえをよむとき、あなたは神を正義とよべるでしょうか。
放蕩ほうとう息子のたとえをきくとき、神をそのようによべましょうか。息子はあそびつくして、すべての持ち物をうしない、かえってきました。それなのに父は、首をいだき、すべての持ち物をその息子にあたえたのです。

こうした神についてのたとえをかたっているのは、ほかのダレでもありません。ほかの人がこのたとえをかたったとしても、神の善を信用できないでしょう。しかし、このようにあかししているのは、まさに神のみ子なのです。

わたしたちは罪人です。しかし、キリストがわたしたちのために死んでくださいました。ここに神の「正義」は一体どこにあるのでしょうか。
ここで神があわれみぶかい方であるなら、わたしたちには「神はかわらない」という信仰しんこうがあるのです。

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