イエス様の教えには、次の御言葉のように難解な箇所があります。
続きを読む私のもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、また自分の生命さえも憎まない者は、私の弟子となることは出来ません。 ルカ14:26
"Adam & Eve / creation and fall / XII century /" by jimforest is licensed under CC BY-NC-ND 2.0
イエス・キリストのことをよく「救い主」と言いますよね。
でも、なぜイエスは救い主なのでしょうか。
キリストは、何からわたしたちを救ったのでしょうか。
福音は あてもなく さまよってしまった ある子どもの お話を つたえています。
子どもは 外にでて さっていこうと していました。
家族は そのことを しっています。でも、 子どもを とめるコトは しませんでした。
しばらくして、 子どもは 自分が 道にまよっている ことを さとります。
父親と 共に いたいと ねがいました。
まもられ 愛されたいと ねがいました。
家に かえりたいと ねがいました。
この福音は ただ 若者が さまよった だけの 物語 では ありません。
わたしたちが どのようにして 時々 主から まいごに なってしまう のか という お話 なのです。
わたしたちは さまよう コトが できます。
道に まよい、 神から はなれて おそろしい きもちに いたる コトが できます。
神は いつも あなたを みつけたいと ねがって おられます。
神は わたしたちが 家 つまり 神のところに きてほしいと ねがっています。
神は どんなときでも わたしたちの 世話をして、 愛をそそぐ そなえを ととのえています。
もし わたしたちが 神から はなれて さまようような あやまちを おかしたとしても、 神の もとに かえれば まもってくださるのです。
この 放とう・息子の 物語を つねに おぼえておきましょう。
今日シリアのイサクをよんでいて、こんな言葉をみつけました。イエスのたとえ話である「
シリアのイサクは7
聖徒たちが神の名のためにくるしみをたえて神への愛をあらわしたとき、神はその愛するものたちをみすてません。
聖徒たちは心の底から神をみる勇気を得ます。
勇気あるいのりは力づよいものです。聖者がたくさんのかなしみから試みをうけることを神がゆるすのは、神のたすけとまもりをおしえるためです。
なぜなら、神はくるしみの中からあがないだされる方だからです。聖徒たちは無学だけれども、経験から知識を得ます。それはサタンからあざわらわれないためです。
なぜなら、もしよいことだけで試みをうけたなら、ほかのまなびがないので たたかいにおいてメクラになるでしょうから。
――人々がキュロスから帰国の許可を得たとき。
主よ、わたしはあなたに向かって
わたしはあなたの聖なる住まいに向けて手をのばしました𝅝 わたしに耳をかたむけてください。
わたしの願いを聞きいれてください𝅝 わたしのいのりはとだえません。
わたしのタマシイを壊さず、むしろ築きあげてください𝅝 どうか悪しき者の前にすておかないでください。
よこしまに報いる者が、マコトのさばきをもってわたしから遠ざけられますように。
主よ、わたしの罪にしたがってわたしをさばかないでください。あなたのみ前に罪なき人はいないからです。
主よ、あなたの律法をわたしに示し、あなたのさばきをわたしに教えてください𝅝
そうすれば、多くの者があなたのわざを聞き、国民たちはあなたのほまれをたたえるでしょう。
わたしを覚え、わすれないでください𝅝 たえられないことに導かないでください。
わかいころに犯した罪がわたしから消え、わたしへの
主よ、悪いツァラアト(病)からわたしを清め、もうわたしのもとに来させないようにしてください。
わたしの中のツァラアト(病)の根をからしてください。その葉が芽をださないようにしてください。
大いなる主よ、わたしの願いはあなたによって果たされます。
どんな人に「あなたはわたしにあたえてくれます」といえるのでしょうか。人間の力は、わたしにとって何の助けになりましょうか。
主よ、以前からあなたは、わたしの力です。わたしは主に向かってさけび、主はわたしの声を聞いて、わたしの心のさけ目をいやされました。
わたしはまどろんでねむり、夢をみました𝅝 そこでわたしは助けられ、主がわたしを支えてくださいました。
人々はわたしの心をいためました𝅝 しかし、主がわたしを救ってくださいましたので、わたしは感謝をもってそのお礼をささげます。
わたしは今、かれらのはじを喜びます。あなたに希望を持ち、わたしははじることがありません。
ほまれはとこしえにあなたのものです。
エリック=ジョーブによる最近の義認シリーズ(パートI, パートII, パートIII)は、正教会での「神の怒り」のあつかいについて議論をおこしました。
正教会の考え方には「神の怒り」がない、と一部の読者はかんがえていたようです。
そういう人たちにとって、救いは「神の怒りからの解放」となんの関係もありません。
わたしは義認シリーズについてはとくにコメントしません。かわりに、義認と関連する「神の恵みと怒り」についての問題をとりあげます。
ここでは、正教神学における恵みと怒りの関係についておおまかに探ってみます。この記事ではまだみじかくて不十分かもしれませんが、あまり学術的な議論よりも実際の体験や現実的なことを中心にかいていきます。