初実の果

キリスト教についてまとめるメモブログです。

真理の剣―マタイ10:34、聖Nicolai Velimirovichと現代の解説


Glory

私が平和を地上に投じるために来たと思ってはならない、私が来たのは平和ではなく剣を投じるためである。(マタイ10:34)

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主はこう言われました。次のような意味だと考えてください。「私は真理と偽り、知恵と愚かさ、善と悪、正義と暴力、獣と人、神と富を和解させるために来たのではありません。これらを混ぜ合わせることなく切り離すために剣を持ってきたのです。」

主よ、あなたは何を切るのですか?
真理の剣と神の言葉の剣、どちらも同じ一つの剣です。なぜなら、真理は神の言葉であり、神の言葉は真理だからです。

パウロはこう言っています。「救いのかぶとと、神の言葉である霊の剣を取りなさい。」*1ヨハネは幻の中で「二つの燭台の間にいる人の子」*2の「口から両刃の剣が出ていた」*3のを見ました。口から出ている剣というのが、神の言葉、真理の言葉でなければ何でありえましょうか。これはイエス・キリストが地上に持ってきた剣です。剣とは善と悪との和解ではなく、言葉*4による永遠の救いのことであります。

聖Nicolai Velimirovich、宣教書簡、第一部第九書簡「鍛冶屋への手紙、『私は平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た』のキリストの言葉の意味について」


この言葉の剣は、世界中のたくさんの人々によって無視されています。彼らは自分たちを「クリスチャン」だと噓をつき(正教徒にもいます)、世界とその流行と妄想に固執し、他の非クリスチャンと同じ道徳を持ち、実践しています。

使徒たちは虚偽の「包含性」「愛」「多様性」などについて話すべきではないと言います。私は性道徳について聖書を無視している正教徒を見たことがあります(この二人は肉的欲求natureに基づいた性的な行いをし、特に聖書の言う本質natureを行いませんでした)。彼らは性的罪にはまっていたり、この世の知的な詭弁に耳を傾けていたりします。

教会の外にいる人たちは、キリストが地獄に降りたこと(彼らは地獄と悪魔を信じていない)、キリストが本当に神であり人であること、また7の70倍も赦しなさいという教えを否定するでしょう。正教会の司祭であれば、正教徒のほとんどがこの教えを実践しておらず、またその間に生ぬるく誤った意見がはびこっていることを知っています。

真理を信じることを恐れてはいけません!ほとんどの人は真理を恐れています。彼らは真理の一部を信じていますが、それを友人や仲間の間で認めることを恥じていたり、もしくは単に難しすぎると感じ、実行してみることさえ拒否しています。このような人たちは剣を投げ捨て、敵に滅ぼされます。

私たちは最近、大統領が性的不道徳の無制限な法的容認と推進の擁護者であることを声高に言うのを見ました。ここに、真理の剣を身に付けなければならないという明確で現代的な理由があります。現代科学、学問、法律、また誰かの意見によって神の言葉に逆らえるという考えにだまされてはなりません。これは良いものではありません。真理のうちに留まりなさい。

真理の剣を生活に当てはめることは、自分の意見、優先順位、行動、言葉を含む意思を、意識的に真理に服従させることです。私たちはまだ、弱さのゆえに罪を犯すかもしれませんが、悔い改めと神の恵みによってそのようなことは癒やされます。真理を語り、行おうとする勇気がなければ私たちは癒やされません。

*1:エペソ6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

*2:黙示録1:13 そして、七つの燭台の間に、人の子に似たものがいるのを見た。その身には足まで届く長服を着て、胸に金の帯びを締めていた。

*3:黙示録1:16 その右手に七つの星を取り、その口から鋭い両刃の剣が出ていて、その顔は強く輝く太陽のようであった。

*4:「言葉による救い」とはその言葉の力によって、神の言葉すなわちイエス・キリストに学び、従うことです。