なぜ宇宙は存在するのでしょうか?――天地の造り主
以下は新著書『使徒信条:偽りの時代における真のキリスト教の発見』からの抜粋です。
なぜ
現代では、
つまり、
一方クリスチャンはすべての存在と現実を全能の父なる神、天地の造り主、主権者の行いによって存在していると信じています。
天地の造り主なる神は万物の創造者、維持者です。万物とはかつて存在したものであり、これからも存在するものです。
使徒信条は神が全能の父であり、天と地の造り手である、と始まります。
聖書はまた神を創造者として始めます。「始めに、神は天と地を創造された」(創世記1:1)。創世記1:1は、始めから神に関する中心的で本質的な真理を明らかにしています。
第一に、神は永遠であり、天地創造よりも前から存在しています。
第二に、神は天地にしばられず、無限であります。
第三に、神は全能であり、被造物の存在を物語っています。
最後に、神は創造において何にも依存せず、独立しています。
これらの真理は「
世界観の違い
私たちの世界観の最も基本的な特徴は、創造論をもとにしていることです。すべての世界観には始まりについての理論があります。世の始まりをどのように理解するかで、人のアイデンティティーや目的、歴史のあり方についての考え方に影響を与えます。始まりについての問いにどう答えるかで、人の価値、目的、お互いや神に対する
世俗的な世界観とは対照的に、聖書の物語は創造における神の目的に私たちを置いて、一人一人の人生に意味と妥当性を与えています。創造は神の目的の頂点であり、神の
しかし、物語が創造から始まらなければ、世界そのものが神以外の何かによって存在するため聖書の物語が始まりません。もしこの考え方を失えば、危険を冒すだけでなく確実に神学的な誤りに陥ります。神を創造主として、また私たちをその被造物として確立させれば
創造主を信じ崇めるのを拒否する必要がなく、また被造物そのものが神を明らかにしているにもかかわらず(ローマ1:20)、私たちはまだ罪のため、信じるのに特別な啓示を必要としています。パウロは被造物の中に目に見えない神の特質を見出すべきだと言いました(ローマ1:18-32)。しかし、パウロは罪によって私たちすべてが腐敗した堕落の影響を忘れませんでした(創世記6:5-6; ローマ3:10-18)。
罪は明らかであるべきものをはっきりと見えないようにします。ですから、私たちは他の方法では見られず、また見ないであろうものを特別な啓示と神の言葉に絶対に依存して見えるようにするのです…
私たちの心はエデンに戻りたいと切望します。私たちは、創世記3章がまるで起こらなかったかのように創世記2章の状態に戻りたいと切望します。しかし、この思いは無駄です。後戻りは不可能であり、神の大いなる栄光のためになりません。むしろ、私たちは前に進みます。古いものではなく、新しい天と地のために努力します。残りの被造物と共に神の国が満ち足り、キリストが帰還するのを待ちます(ローマ8:22)。創世記から黙示録に至るまで、そこに神の栄光が見えるでしょう。そしてついにその日、彼が「見よ、私はすべてを新しくする」と言うのを聞くのです(黙示録21:5、Ⅱコリ5:17参照)。
この新しい創造の約束はクリスチャンに安らぎをもたらすはずです。神はご自分の創造に責任を持ち、栄光をもってこの新たな創造を見ます。
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